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ぐるり世田谷

世田谷にはたくさんの「訪れたい場所」がある。古くから愛されてきたお店や、知る人ぞ知る穴場など、地元の情報をご紹介。思い出に残る昔の世田谷から今の世田谷まで。

2013.08.18

昔ながらの世田谷代田を知る、悉皆屋「染の鶴賀屋」に聞く今の街

かつて、世田谷代田にあった「中原商店街」には140店舗あまりの商店が建ち並び、とても賑わっていたのだそう。しかしながら、昭和39年、環状七号線ができたことにより、街の風景は一変し、人々の暮らしも変わっていきました。当時の中原商店街から、着物の染めやお直しなどを営んでいる「鶴賀屋」の2代目店主・志賀三平さんに、世田谷代田の昔と今についてお話いただきました。 [ 8月の特集 世田谷代田の町と「ものこと祭り」]

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環状七号線ができる前の代田とは

八百屋や魚屋などの生鮮類だけでなく、酒屋に乾物屋、佃煮屋、パン屋、ラヂオ屋に煙突屋、髪結屋まで、ありとあらゆるお店が建ち並んでいたとされる「中原商店街」(昭和26年に代田商店会に名称変更)。その数140店舗あまり。昭和14〜15年頃の商店街の姿が記された本、『昔の代田(故・今津 博 著)』にある古い地図を見ると小田急線世田谷中原駅(現・世田谷代田駅)と、帝都電鉄(現・京王井の頭線)代田二丁目駅(現・代田駅)を結ぶ細い道沿いに店の名前がずらりと並び、その頃の様子が少しばかり伺えました。

戦後、さらに200店舗にまで膨れ上がったものの、環状七号線の道路計画が持ち上がり、ちょうど道路上にあった中原商店街は分断されることに。もちろん、お店はほとんどが立ち退きをよぎなくされ、住民の生活は一変しました。

当時を知る「鶴賀屋」の志賀三平さんは昭和20年生まれ。現在の代田商店会の4代目会長でもあります。昭和27年に中原商店街でお父さんが始めたという悉皆屋(しっかいや)「鶴賀屋」も立ち退きにあい、環状七号線沿いに移転。今は2代目の志賀さんが営んでいます。悉皆屋の仕事は、洗い張りや生き洗いなどの和服のクリーニングをはじめ、仕立や仕立直し・反物の染めや染め直しなど、多岐に渡ります。着物が日常着だったその昔にはどこの商店街にもあったのだそう。

志賀さんは若林、奥さんの芳子さんも松原と、おふたりとも世田谷生まれ、世田谷育ち。当時、まだ子どもだった頃の代田の思い出を聞いてみると……。

「環七が工事中だった時、工事現場でキャッチボールをして遊んだね。子どもの遊び場になってたけれど、それもほんの一瞬。東京オリンピックの開催に合わせて突貫工事で環七ができあがった。この時代は子どもが多かったけれど、道路ができた途端、みんないなくなってしまったね」(志賀さん)

1クラス50人もいた同世代の友だちは、ほとんどが立ち退きで引っ越してしまったそう。大きい道路ができたことによって、遠くに行くには便利にはなっても、近くのお店や人との暮らしのなかのつながりは分断されてしまったのでした。

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昔ながらの人と人がつながる商店会へ

近くて遠い、道路のこちらとあちら。かつては、お店がひしめきあい、向かい同士で声をかけあえる道幅だったという中原商店街も、今は代田商店会として所属するのは40店舗ほど。中には商売はせず、商店を壊してビルに建て替え、マンション経営になっているところもあるのだとか。けれど、そんなシャッター街になってしまった代田商店会に、今から3年前、専門学校を卒業し、自分の作品を自由に作ることができる工房を探していた家具職人の南 秀治さんがやってきました。そして、代田商店会に仲間とともに工房を構え、『世田谷代田ものこと祭り』を開催。こうした活動などをきっかけに、少しずつ代田商店会に新しい風が吹き込んできました。

南さんが代田商店会で工房を構えた時、大家さんに紹介されて挨拶へ行ったのが、商店会長である志賀さんのお店でした。『ものこと祭り』を始める時も、「おもしろいじゃん。やるならやってみな」と、各方面に話を通してくれたと言います。

「今までそんな若者はいなかったから応援したくなってね。昔そうだったようにさ、人と人のつながりができるといいじゃない」(志賀さん)

志賀さんはそんな想いから、南さんを全面バックアップしたのでした。その紹介によって商店会、消防団などにも所属南さんは、平均年齢が70歳近い高齢化した商店会のなかで若手として活躍を期待されています。

「南さんが来てくれたことによって、代田も変わってくると思うよ」と志賀さん。南さんも「志賀さんみたいな人がいるのは心強い」と話すように、互いが互いを必要としながら、コミュニティのなかで、それぞれの役割を担いながら暮らしていくこと。商店会は、本来そういうつながりがあったところでしたが、大型の幹線道路や店舗ができてからというもの、そういうつながりが見えにくくなってしまいました。けれど、南さんのように、地域に入っていこうとする勇気と、人の心を動かす思いがあるならば、関係は自然と変わっていくのではないでしょうか。

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これからも残して行きたい「もの・こと」

かつて世田谷に5~6店舗あったという染めを専門とする小紋屋も、着物を着る機会が少なくなった今では、職人さんが激減。次々と店を畳んでいったそうです。

「職人がやる仕事は独り立ちするまでに何年も必要でしょ。一度失った技術はもう戻せないのよね。いいものがあったのに」(芳子さん)

ものづくりを生業にする南さんも、「職人はがんばってるのに、なかなか変わらない状況をなんとかできたら」と言います。

「今の状況は需要があって、使い手がいてこそ変わること。いいものを使うのって楽しいね、いいよねって思ってほしい。だから『ものこと祭り』で、職人と街の人が交流してもらうきっかけになるといいなと思っているんです」(南さん)

例えば「着物に興味を持ってくれた人が志賀さんのところで着物を仕立ててみようと思ったり、僕のところで家具を作ろうとか、5年前に買ったものなんだけど直してもらおうとか、そうした作り手と使い手が一回で終わる関係じゃなくて、長く『ありがとう』でつながる関係がつくれたらいいなと思っています」(南さん)

第2回目の開催となる今年も、志賀さんの鶴賀屋は昨年に引き続き、絹100%のはぎれを販売するとのこと。今年はスタンプラリーのスポットにもなるそうで、ぜひお店に立ち寄って、昔話に花を咲かせてみては?

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(撮影:渡邊和弘)

[ 8月の特集 世田谷代田の町と「ものこと祭り」]

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紹介者プロフィール

薮下佳代 (やぶした・かよ)

編集・ライター

大阪府生まれ、世田谷区上馬在住。新聞社、出版社を経てフリーに。現在は、雑誌やウェブなどの執筆・編集を手がける。特に、おいしいもの、おもしろいものに目がなく、街歩き取材が大好き。2011年、編著『TOKYO ISLANDS 島もよう』(エスプレ)を手がけた。

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