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昔ながらの世田谷代田を知る、悉皆屋「染の鶴賀屋」に聞く今の街

環状七号線ができる前の代田とは
八百屋や魚屋などの生鮮類だけでなく、酒屋に乾物屋、佃煮屋、パン屋、ラヂオ屋に煙突屋、髪結屋まで、ありとあらゆるお店が建ち並んでいたとされる「中原商店街」(昭和26年に代田商店会に名称変更)。その数140店舗あまり。昭和14〜15年頃の商店街の姿が記された本、『昔の代田(故・今津 博 著)』にある古い地図を見ると小田急線世田谷中原駅(現・世田谷代田駅)と、帝都電鉄(現・京王井の頭線)代田二丁目駅(現・代田駅)を結ぶ細い道沿いに店の名前がずらりと並び、その頃の様子が少しばかり伺えました。
戦後、さらに200店舗にまで膨れ上がったものの、環状七号線の道路計画が持ち上がり、ちょうど道路上にあった中原商店街は分断されることに。もちろん、お店はほとんどが立ち退きをよぎなくされ、住民の生活は一変しました。
当時を知る「鶴賀屋」の志賀三平さんは昭和20年生まれ。現在の代田商店会の4代目会長でもあります。昭和27年に中原商店街でお父さんが始めたという悉皆屋(しっかいや)「鶴賀屋」も立ち退きにあい、環状七号線沿いに移転。今は2代目の志賀さんが営んでいます。悉皆屋の仕事は、洗い張りや生き洗いなどの和服のクリーニングをはじめ、仕立や仕立直し・反物の染めや染め直しなど、多岐に渡ります。着物が日常着だったその昔にはどこの商店街にもあったのだそう。
志賀さんは若林、奥さんの芳子さんも松原と、おふたりとも世田谷生まれ、世田谷育ち。当時、まだ子どもだった頃の代田の思い出を聞いてみると……。
「環七が工事中だった時、工事現場でキャッチボールをして遊んだね。子どもの遊び場になってたけれど、それもほんの一瞬。東京オリンピックの開催に合わせて突貫工事で環七ができあがった。この時代は子どもが多かったけれど、道路ができた途端、みんないなくなってしまったね」(志賀さん)
1クラス50人もいた同世代の友だちは、ほとんどが立ち退きで引っ越してしまったそう。大きい道路ができたことによって、遠くに行くには便利にはなっても、近くのお店や人との暮らしのなかのつながりは分断されてしまったのでした。



昔ながらの人と人がつながる商店会へ
近くて遠い、道路のこちらとあちら。かつては、お店がひしめきあい、向かい同士で声をかけあえる道幅だったという中原商店街も、今は代田商店会として所属するのは40店舗ほど。中には商売はせず、商店を壊してビルに建て替え、マンション経営になっているところもあるのだとか。けれど、そんなシャッター街になってしまった代田商店会に、今から3年前、専門学校を卒業し、自分の作品を自由に作ることができる工房を探していた家具職人の南 秀治さんがやってきました。そして、代田商店会に仲間とともに工房を構え、『世田谷代田ものこと祭り』を開催。こうした活動などをきっかけに、少しずつ代田商店会に新しい風が吹き込んできました。
南さんが代田商店会で工房を構えた時、大家さんに紹介されて挨拶へ行ったのが、商店会長である志賀さんのお店でした。『ものこと祭り』を始める時も、「おもしろいじゃん。やるならやってみな」と、各方面に話を通してくれたと言います。
「今までそんな若者はいなかったから応援したくなってね。昔そうだったようにさ、人と人のつながりができるといいじゃない」(志賀さん)
志賀さんはそんな想いから、南さんを全面バックアップしたのでした。その紹介によって商店会、消防団などにも所属南さんは、平均年齢が70歳近い高齢化した商店会のなかで若手として活躍を期待されています。
「南さんが来てくれたことによって、代田も変わってくると思うよ」と志賀さん。南さんも「志賀さんみたいな人がいるのは心強い」と話すように、互いが互いを必要としながら、コミュニティのなかで、それぞれの役割を担いながら暮らしていくこと。商店会は、本来そういうつながりがあったところでしたが、大型の幹線道路や店舗ができてからというもの、そういうつながりが見えにくくなってしまいました。けれど、南さんのように、地域に入っていこうとする勇気と、人の心を動かす思いがあるならば、関係は自然と変わっていくのではないでしょうか。



これからも残して行きたい「もの・こと」
かつて世田谷に5~6店舗あったという染めを専門とする小紋屋も、着物を着る機会が少なくなった今では、職人さんが激減。次々と店を畳んでいったそうです。
「職人がやる仕事は独り立ちするまでに何年も必要でしょ。一度失った技術はもう戻せないのよね。いいものがあったのに」(芳子さん)
ものづくりを生業にする南さんも、「職人はがんばってるのに、なかなか変わらない状況をなんとかできたら」と言います。
「今の状況は需要があって、使い手がいてこそ変わること。いいものを使うのって楽しいね、いいよねって思ってほしい。だから『ものこと祭り』で、職人と街の人が交流してもらうきっかけになるといいなと思っているんです」(南さん)
例えば「着物に興味を持ってくれた人が志賀さんのところで着物を仕立ててみようと思ったり、僕のところで家具を作ろうとか、5年前に買ったものなんだけど直してもらおうとか、そうした作り手と使い手が一回で終わる関係じゃなくて、長く『ありがとう』でつながる関係がつくれたらいいなと思っています」(南さん)
第2回目の開催となる今年も、志賀さんの鶴賀屋は昨年に引き続き、絹100%のはぎれを販売するとのこと。今年はスタンプラリーのスポットにもなるそうで、ぜひお店に立ち寄って、昔話に花を咲かせてみては?


(撮影:渡邊和弘)
ご近所にこんな魚屋があると嬉しい。食卓の心強い味方「勇魚」

新しい魚に出会える場
千歳烏山の駅前通り商店街から少し離れた、住宅街の入り口に「勇魚」はあります。店内をざっと見渡しただけでも、魚の種類は20〜30種類。東京のほかの店では滅多に手に入らない珍味も豊富で、取材で訪れたこの日は、カツオのはらんぼや、マンボウの腸、“オジサン”や“スミヤキ”なんて変わった魚も置いてありました。
「魚の種類って本当にたくさんあるので、なるべく多くの人に、知らない魚も食べてみてほしいんです。この店へ来ると、いつもうまくて面白いものが置いてあるって思ってもらえたら嬉しい。意識して珍しいものを置くようにしています」
と、店長の野近勇気さん。

昔ながらの魚屋の良さを
10年以上板前をしていたという野近さんは、同僚だった佐藤拓人さんと二人でこのお店を始めました。魚に関しては同世代に負けない知識をもつ野近さんと、どんなお客さんとも気さくに話せる佐藤さんは、傍で見ていても名コンビ。今年の2月に開店したばかりですが、わずか半年でお客さんが途切れることなく訪れています。
ここで買う魚はいつも新鮮で、初めて見る珍しい魚もあり、買い物するのが楽しみになります。そして何より嬉しいのは、二人が熱を込めて魚のことを色々教えてくれること。
「どの店もだいたい置いてある魚って同じですよね。アジにサバにイワシ、切り身だったらサーモンとブリ。知らない魚があっても、どうやって調理したらいいかわからないから皆買わないし、スーパーでは珍しい魚にはあまり手をつけない。うちではどこで穫れた魚かをきちんと説明して、こう食べるとうまいよってアドバイスするようにしています」
どの海の魚がいつ頃出まわるか、どのくらい脂がのっていて美味しいか。同じ産地でも気候などの条件によって海の状況は変わります。だからこそ漁場や市場から旬を運んでくる魚屋の役割は大きいもの。お客さんとの会話や、その日食べる分だけをさばいてくれるなど昔の魚屋には当たり前にあった文化が薄れている今、「勇魚」のような魚屋が、あらためてその価値を教えてくれます。


料理人だからこその魚屋
将来は魚を扱う料理屋を始めることが目標で、その土台として魚屋を始めたと言う野近さん。魚の旬を肌で感じるため、毎日築地まで仕入れに出向きます。
「値段ではスーパーに勝てないけれど、ここへ来ると魚に間違いがないって言ってもらえるような店にしたい。朝しめてまだ身がぶるぶるしている刺身は、自信をもってお勧めできるし、本当の魚の美味しさを知ってもらいたい思いがあります」
店の一番の売りは、野近さんの出身地でもある高知県のカツオです。時期によって他の産地のものも扱いますが、毎朝店で、実際にわらで焼いているという徹底ぶり。そのほかにも、料理人の営む魚屋らしく、刺身やフライ、南蛮漬けなど、調理したお惣菜もたくさん置いてあり、仕入れた魚を捨てることはほとんどないのだそう。
その上、魚をおろすだけでなく、焼く、煮る、揚げるまでをやってもらえる(!)サポートもあるので(+100円)、忙しいお母さん方には心強い味方です。
「年配の方も多いけど、意外と若い子連れのお母さんが多いですね。スーパーの魚にも産地は書いてあるけれど、うちは産直のものもあるし、出どころがはっきりしているので、安心して買っていただけているんじゃないですかね」と佐藤さん。
お店でのお客さんとの会話に耳をすますと…。
「このサワラ、煮付けるのにお出汁要ります?」
「今のサワラは要らないですね。醤油とみりんだけで十分。もうちょっとして、脂が減ってくると少し入れるといいかもしれない」
「はらんぼって何ですか?」
「鰹の一部で、東京では滅多に手に入らないけど高知だとよく食べるんですよ、塩して酒のつまみに」
「これって、どこのカツオ?」
「普段は高知のカツオを産直で扱ってるんですけど、今の時期は勝浦のもち鰹の方が旨いんです。同じ産地でも季節によってまったく違うから。もう少しすると、今度は気仙沼の戻りガツオが出ますよ」
海で生きていたものをいただいている実感を、より鮮明にしてくれる、産地が垣間見えるお店です。
(撮影:庄司直人)




連載『その食べ物の生まれるところ』
今都会に暮らす私たちは、食べ物の生まれる所からどんどん遠ざかっていると言えます。食卓に並ぶ野菜や肉、魚など食材はすべて、もとは自然のなかで育った植物や動物たち。生産地は地方でも、きちんと選んで美味しく食べてもらうことを真剣に考えているお店が世田谷にはたくさんあります。その食材がどんな土地で栽培され、どう食べると美味しいのか。教えてくれて「食べ物の生まれるところ」を想像させてくれるのが、実はいいお店。そんな食の伝道者をご紹介していきます。
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いつまでも大切にしたくなる、天然オーダー家具の「クニナカ」

この場所で、家具を作り続けて65年
クニナカを訪れると、最初に目を引くのがそのレトロな外観。懐かしい引き戸を開けると、隣の工場から家具を作る音が聞こえてきました。のぞいてみると、ちょうど職人さんが刷毛で塗装を仕上げているところ。壁一面に木材がずらりと並び、使い込まれた道具が置かれています。クニナカの家具は、すべてこの小さな工場でひとつひとつ職人によって手づくりされているのです。
お客さまとの打ち合わせスペースのある店舗の2階に上ると、外観からは想像できないような素敵な空間がありました。木枠の窓からは、心地のよい緑がのぞきます。無垢材の大きなテーブルや椅子、雑貨の並ぶ飾り棚など、木のぬくもりに溢れた家具は1階の工場で作られたもの。実際にこうした家具に触れてもらいながら打ち合わせを行うそうです。
「祖父が『堀木工所』を創業したのが昭和23年。戦前に鉄工所として使われていた建物を利用したそうです。平成2年に名称をクニナカに変更しましたが、店舗は当時からそのまま」と國中さん。65年前から、この場所、同じ建物で、家具を作り続けてきたのです。


いい家具だからこそ、長く使ってほしい
オーダー家具のメリットは、好みやサイズなど、さまざまな要望に応じて製作できること。中でもクニナカは、無垢材を主役にした家具を得意としていて、チェリーやウォールナットなど20種類以上から選ぶことが可能です。自然のままの木の表情を生かした家具は、無機質な素材と違って、ほっとするやさしい空間を演出してくれます。
「見た目だけでなく、無垢材で作ったテーブルは合板のような接着剤を使わないので、化学物質が苦手な方や小さなお子さまがいる家庭でも安心。オイル塗装と蜜ろうワックスで仕上げれば、自然な手触りも楽しめます」と國中さん。オイル塗装は、しっとりと肌になじむ心地よい手触りや、時間とともに変化する風合いも魅力です。
「既製品よりも価格は高くなりますが、そのぶん“長く使っていただける”ことを一番に考えています。そのためには、機能性はもちろん、飽きのこないデザインや安全な素材を使うことも大切です。無垢材なら何度でも削りなおせるので、世代を超えて使えますし、職人が出張してメンテナンスも行いますよ」


職人技を感じさせる、丁寧な手仕事
クニナカでは、テーブルの9割が無垢材で作られていますが、収納などには、安全基準をクリアした合板を使用することも。「無垢材だけだと高くなりますし、合板には反りにくいという利点もあります。家具によっては見えにくい部分に使う提案もします」と國中さん。用途や予算に合わせて相談にのってくれるので、初めてのオーダーでも安心です。
お客さまとの打ち合わせでは、過去に手がけた見本写真のほか、写真やスケッチを参考にしながら、イメージを形にしていきます。
「一から作るものなので、お客さまと同じものを描けているかが、最も気をつかうところ」と國中さん。無垢材だけを使ったナチュラルな収納棚から、ステンレスや大理石と組み合わせたモダンなキッチンなどバリエーションも豊富です。簡単な棚やテーブルなら、2週間ほどで出来上がります。
気になる価格ですが、椅子で大体7万円から。既成品と比べると高く感じるかもしれませんが、背もたれの絶妙な角度、すべりにくい座面など、座ってみるとその良さが伝わってきます。あるお客さまは、他の店を何軒もまわったあとに「ここの椅子がいちばんだった」と戻っていらしたとか。どれも木の素朴な存在感と手仕事のぬくもりに溢れていて、丁寧に手彫りされた跡には愛おしさまで感じるほどでした。


地域のお客さまに支えられて
実は、素材にこだわって個人向けのオーダー家具を増やし始めたのは、約30年前に國中さんの母親である現社長・高橋さんが会社を継いだ時からでした。当時は「シックハウス症候群」が知られ始めた頃で、高橋さんは育児中だったこともあり、大量生産をせず安心できる素材で家具を作りたいと思ったそうです。「小さい店だから宣伝にお金はかけられません。それでもやってこられたのは、お客さまが口コミで広げてくれたおかげ」、と高橋さん。
リピーターのお客さまが多く、長いお付き合いは25年以上に及びます。
「新築時に家具を手がけたお客さまが、その後キッチンのリフォームを頼んでくださったこともあります。赤ちゃんだった娘さんが大学生になっていて時間を感じましたね」
と高橋さん。3代目となる國中さんも「お店を大きくするよりも、いいものを作り続けたい」と話します。
「新品もいいけれど、“おじいちゃんの代から大事に使ってきた椅子”には、代えられない価値があると思うのです」とは、印象に残った高橋さんの言葉。昔から変わらない場所で、地域のお客さまに支えられてきたクニナカ。素敵な家具と長い時間をかけた付き合いを始めたくなるお店です。

(撮影:渡邉和弘)
中村未絵
お母さんもほっとひと息、子どもとのんびり過ごせる一軒家

子どもがのびのび遊べる場
「おでかけひろば@あみーご」(以下「@あみーご」)は、世田谷のまちづくり支援団体「一般財団法人世田谷まちづくりトラスト」が行っている「地域共生のいえ」という事業の一環で運営されている施設(サービス)です。自宅の一部を子育て世代に役立てたいと申し出たオーナーの安原美代子さんの思いを、任意団体である子育て支援グループ「amigo」が受け止め、世田谷区の補助を得て運営しています。
庭を望む20畳ほどのリビングを中心に、グランドピアノの部屋、キッチン、そして奥にはお母さんや赤ちゃんが横になれるようソファベッドが用意された小部屋も。トイレにはシャワーもついていて、外遊びで汚れてもOK。小さな子どもと安心して過ごせる細やかな配慮が、まるで親戚の家に遊びに来たかのようです。0~3歳の子どもたちが、水遊びをしたり、ピアノを弾いたりと、自由にのびのびと過ごし、親たちはくつろぎながらその姿を見守っています。


一人の「おばあちゃん」が提供した住まいの一部から
運営団体「amigo」代表の石山恭子さんは、「@あみーご」のテーマは「放牧」だと話します。
「少し前の社会では子どもたちは地域社会という牧場で放牧されるように、みんなに見守られて自由に遊び回って育ってきました。今の育児の最大の困難は、この放牧場がなくなったことだと思うのです。そこでこの言葉をキーワードにしようと思いました」。
現在ここは、訪れる人みんなで子どもたちを見守る場所。「家で自分の子どもと1対1だと疲れるけど、ここではいろんなお母さんが子どもの相手をしてくれる」、「首のすわらない赤ちゃんを抱っこすると、自分の子もこんな時があったなぁと懐かしくなる」とお母さんたちが話すように、子どもだけではなく大人にとっても大切な空間となっています。自分の子どもと少し距離を置くことで新鮮な気持ちで子育てに向き合えているのかもしれません。
昨年の2月まで隣の居住スペースには、オーナーの安原美代子さんが生活していました。時々リビングや庭に顔を出しては、来場者と会話を楽しんでいたそうです。季節に合わせてお手製のちらし寿司やおはぎを差し入れてくれたり、ピアノや笛を吹いたりと、まさにみんなの「おばあちゃん」。住まいの大半のスペースを提供したのも、自身のつらい子育て時代の経験からだったそう。昨年他界された後も、ご家族の好意で今までと変わらない空間であり続けています。


運営しているのも子育て中の方々
運営団体「amigo」のスタッフも、現在子育て中の方ばかり。赤ちゃんの便秘の相談から、子どもを乗せる自転車の情報まで、インターネットでは得られない情報を直接提供しています。「自分たちが必要だと思ったことを提供することで、お母さん達に安心感を感じてもらえている」という石山さんの言葉どおり、利用者のお母さんたちと同じ目線でつかず離れずの関係を築いています。
一日の来場者は多いときで20組を超え、近所の人はもちろん、自転車や電車で訪れる人も。「ママ友と約束して来るというよりは、あみーごに行けば誰かいるし、知り合いがいなくても楽しめる」と常連のお母さん。「とにかくゆっくりくつろげる」と話します。この日も珈琲を飲んだり、本を読んだり、うたた寝したりと、みんなで輪になってお喋りというよりは、思い思いに1人時間を楽しむお母さんたちの姿が。「ほかの子育てひろばやサロンにも行ったけれどやっぱりここの雰囲気が好き」とリピーターになる利用者が多いことから、ここの居心地の良さがうかがえます。


イベントや自主的な活動も
「@あみーご」では、様々なイベントや講座も行われています。流しそうめんやスイカ割り、クリスマス会などの季節の行事から、おんぶ紐の試着会や子どもの歯の講座、幼稚園情報交換会といった、疑問や不安に答える講座まで多彩です。毎月一度行われている土曜日のイベントは、育休復帰したお母さんや、普段育児に関わる機会の少ないお父さんで賑わいます。
利用者の自主的な集まりも発足され、「お庭に緑を植えたいね」という人が集まれば『園芸部』、「子ども服を作りたい」という人が集まれば『家庭科部』と自然と輪が広がっています。元美容師のお母さんが『子どものヘアカット講座』を開いたりなど、得意なお母さんが中心となって、イベントを企画することもあるそうです。子育てから少し解放されて、「何かをやりたい!」という気持ちになるのでしょうか。一緒に「居心地のいい場」を作り上げていこうという、気持ちが伝わってきます。
「初めて来場されたときは、所在なさそうにされる方もありますが、回数を重ねるうちにその親子らしい過ごし方を見つけ、お母さんの個性もお子さんの個性も見えてきます」と石山さん。スタッフが特別何かをしてくれるわけではない、過ごし方のルールがあるわけでもない、自由気ままな空間。家で子どもと過ごすのに疲れたら、まずはふらっと「@あみーご」に出かけてみては?
(撮影・文 まちとこ出版社 壬生マリコ)


下町風情の残る経堂の阿波踊り集団「経堂むらさき連」とは

商店街が母体の連。一番の目的は地域おこし
平日の仕事帰りに、経堂農大通り商店街の事務所に集まって下さった3人は、経堂むらさき連連長で笛担当の秋山謙太さん(写真中央)、副連長で大胴(大太鼓)担当の清水祐輔さん(写真右)、同じく副連長で女踊り担当の田島聖子さん(写真左)。皆、経堂農大通り商店街で生まれ育った、幼なじみです。
それぞれのご両親が若かりし昭和48年、商店街の活性化のためにむらさき連は結成されました。それ以前も、商店街主催で盆踊りや映写会などを行っていましたが、下高井戸と下北沢で道路を舞台に開催されていた阿波踊りに感化され、すぐに経堂でも開催しようと動き出したのがむらさき連の始まりと3人は語ります。
「むらさき連の一番の特徴は商店街が母体ということですね。商店街の活性化が一番の目的ですから、商店街のセールや経堂まつりが主な舞台ですし、他に出向いていっても商店街の名を汚してはいけないですから」(田島)
多くの連では会費を納めて連に加入し、それを運営にあてていますが、むらさき連への参加は無料。そのかわり、連員達も皆ボランティアで、子どもたちや初参加の人たちへの指導や運営を続けています。
結成から40年、当初は20名ほどの商店街関係者で構成されていたメンバーは今や350人にも増えて大所帯に。特に幼稚園の年長さんから中学生までの子どもが250名余りを占めるようになっています。お祭りでのかっこいい姿を見て加入者が後を経たないのです。とはいえ、最年長の小林さんは結成当初から今も現役で踊り続けていて、幅広い世代の人が参加しているというのもむらさき連の特徴。中心になっている20代30代のメンバーへの世代交代が数年前にあり、むらさき連のタスキは順調に引き継がれています。



コミュニティをかたちづくる“阿波踊り好き”の結束力
むらさき連の練習は、例年5月になると始まります。練習日は、毎週土曜日。まずは17時から18時まで、福昌寺の境内で年長さんから中学生までの子どもの練習があり、大人は19時から21時まで桜丘小学校で練習を行います。練習が終わると大人は十数人連れ立って飲み会へ。体を動かした後のビールはさぞやおいしいだろうと想像できますが、飲み会の楽しみはそれ以外にもあるようです。
「僕は介護職についていますが、医者、アパレル関係、IT系、学生など、いろんな仕事いろんな世代の人が集まっているのがおもしろいですよね。共通点は“阿波踊りが好き”ってことくらいだから、阿波の話かバカ話をしているかなんですけど(笑)」(秋山)
田島さんも「大学生と恋愛の話をしたりもしますよ。自分が学生のとき、30代の人とじっくり話す機会なんてあまりなかったと思う。連を通して知り合うと、年齢の上下の差を感じずに自然と話も弾みます」といいます。清水さんの「夏祭りのシーズンにしか会わない人もいるし、ただの友達とも違う。でもすごく結束力はあるし、同士というのかな、“阿波友”ですかね」との言葉に皆がうなずきます。
今は商店街の枠を飛び出し、経堂周辺のさまざまな人たちが参加するようになったむらさき連ですが、顔の見える関係が続く経堂農大通り商店街の良さを活かしつつ、新しいコミュニティをかたちづくっているようです。


踊る阿呆に見る阿呆。さまざまな世代が楽しみ踊る
お話をうかがった3人も実は連を離れた時期があるそうですが、20代後半に差し掛かり、連に戻ってきたという歴史あり。「私がもう一度連に入ろうかなと思えたのも、妹の友だちがずっと連にいたから。むらさき連は、私を受け入れてくれる存在だった」と田島さんはいいます。「今は経堂に住んでいなくても、阿波踊りのシーズンには練習に通ってくる元住人もいます。かと思えば今年新たに50代の女性が仲間に入りました」(清水)。むらさき連は、いつでも帰ってこられる場所として、経堂をふるさとに持つ人たちをつなげ、また新しい住人も呼び込む役目をも、担っているのかもしれません。
「祭りシーズンは毎週のようにどこかで踊っている」というむらさき連のみなさん。最近は、むらさき連目当てに祭りに足を運ぶ人も、増えているそうです。「プロの連に負けないように、ファンをもっと増やしていきたい」と皆さん。
「踊る阿呆に見る阿呆というように、みんなが一体になれるのが阿波踊りのいいところ。和太鼓や笛の生音を間近で聴くことができるのも魅力です。体に響く音に、みんな血が騒ぐと思いますよ」(清水)
さまざまな世代が楽しんで踊る姿を見ることができる、むらさき連の阿波踊り。この時期にしか味わえない一体感を味わいに、“見る阿呆”になりに出かけてみてはいかがでしょうか。
【むらさき連出演予定】
8月3日 せたがやふるさと区民まつり
8月4日 東林間阿波踊り
8月10日 下北沢一番街阿波おどり
8月25日 東京高円寺阿波おどり


夏休みにブルーベリーつみとりや土のついた野菜にふれてみよう
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損!阿波踊り2013
地域を繋ぐコミュニティ酒場。経堂さばのゆ 須田泰成さん

きっかけは、植草甚一さんのエッセイから
いまから25年前の1988年。かつて渋谷の公園通りにあった大盛堂書店の2階で、須田青年は、植草甚一さんの本に出会い、衝撃を受けました。植草さんといえば、ジャズ、映画、ヒッピー文化など、日本にサブカルチャーを紹介した有名なエッセイスト。あるとき須田青年は、植草さんの本で「経堂」という町を初めて知ることになります。生前、植草さんは経堂に住んでいたのでした。
須田「経堂の駅を降りると魚屋さんの威勢のいい声が聞こえてきて、八百屋があって、まるでサザエさんに出てきそうな商店街でした。実際に住んでみると、植草さんが書いているとおり、古本屋もあって、中古レコード屋もあるし、個人のお店が多くていい町だなと思って。それで経堂に引っ越してきたんです」
その後、母親の病気をきっかけに実家のある大阪を拠点に働きはじめ、映像、広告業界で修行して、ロンドンへ留学。97年、日本へ戻ってくることになりました。
須田「東京に戻るなら、あの町に住もうと、97年に経堂に越してきました。それ以来、ずっと経堂に住んでいます。もともと、個人で経営しているお店に通うのが好きだったんですが、隣にいる人がたまたまプロの棋士だったり、陶芸家だったり、普段なかなか出会えない人たちとの出会いが楽しくて、どんどん経堂での店通いにはまっていったんです」


商店街を守るためにできること
2000年代に入って、全国的に商店街の勢いがなくなった。ある時、馴染みの商店の変化に気がついたという須田さん。個人経営の店は景気の浮き沈みがダイレクトに影響します。
須田「『経営が苦しい』と行きつけのラーメン店の店主がぼやいていたんです。500円のラーメンより安いラーメンを出すお店が近くに登場し、そっちに人が流れてしまった。『からから亭』という名前のラーメン屋だったんですが『がらがら亭』になっちゃったよと(笑)。この店がなくなったら困ると思い、もっと広く知ってもらうために、そのお店のホームページを作ったんです」
さらに、須田さんは人が集まるイベントも開催しようと、毎週月曜日に「からから亭」に集まる立ち飲みバルイベントを企画。新しいお客も取り込み、3年間で150回も開催する大盛況のイベントとなりました。それをきっかけに、ほかの店とも交流が生まれ、もっと経堂を盛り上げようと、「経堂系ドットコム」というホームページを立ち上げます。
須田「経堂って、世田谷のなかでも下町なんです。商店街もたくさんあって、お店同士の横のつながりがすごい。自分のお店の定休日にほかのお店に行ったりと、交流がさかんだから、情報が早いし、『うちも載っけてよ』と、いつのまにかどんどん輪が広がっていきましたね」


経堂の救世主は、なんと「さば缶」!?
2007年、ご当地グルメで町おこしをしようと日本各地で始まった動きを受けて、経堂でもなにかないかと考えたのが「さば缶」でした。ある居酒屋のまかないメニューとして出した「さば缶ネギバター醤油」が評判になり、経堂にある13店舗を巻き込み、「さば缶」フェアを展開。メディアでも取り上げられ、近隣にお住まいの俳優・西郷輝彦さんも「我が青春の味」とテレビで絶賛するほどまでに。
この「さば缶」ブームをきっかけに、街の相談を受けることが増えたという須田さん。
「17年経堂に住んで、毎日どこかで飲んでいて、そこで知り合った人から相談されることが多くなりました。そこでイベントやネットで情報を発信して、新たなお客さんを獲得するためのアイデアを本格的に考えるようになっていったんです」

経堂と地方をつなぐ「さばのゆ」
“飲みニュケーション”を通して知り合った人々とのつながりで、須田さんはコミュニティプロデューサーとして、経堂だけじゃなく、さまざまな地域とつながっていくことになります。2009年、経堂でコミュニティスペース「さばの湯」をスタートさせることになりました。
須田「銭湯って、かつてはどの地域にもあって、人が集まって触れ合う場所でした。コミュニティのハブになる、人が集まる場所を僕も作りたかった。だから店をやるなら『~ゆ』という名前をつけたかったんです」
須田さんが築き上げてきた関係は、経堂という町を軽々と飛び越え、新潟、高知、青森、奈良など、全国に広がっていきます。そのひとつが、2011年3月の東日本大震災で、社屋や工場も流され壊滅的な被害を受けた、宮城県石巻市にある「木の屋石巻水産」です。震災前から「さば缶」で交流のあった須田さんは、震災後すぐ、がれきの中から、泥や油にまみれた缶詰を掘り起こしてきれいに洗い、その缶詰を経堂の飲食店で使ってもらったり、販売したりして、その売り上げを全額義援金にする活動を始めました。多くの義援金が集まり、この運動は「希望の缶詰」と呼ばれ、須田さんが絵本「きぼうのかんづめ」として一冊にまとめました。メディアにも大きく取り上げられたこのプロジェクトも、もともとはお世話になった人を助けたいと、個人的な思いから始まったこと。それはまさに、須田さんがずっと経堂でやってきたことと同じでした。


須田さんがひたすら店に通い、時間をかけてだんだんと顔なじみになり、そうして築き上げた店主や常連さんたちとの関係は、経堂という町だからこそ生まれたもの。「さばのゆ」をはじめ、活気のある商店を見ていると、人の営みが息づく町だとつくづく感じます。町があるから人が集まるのではなく、人が集まるから町が生まれる。須田さんと話をしていると知らず知らずのうちに引き込まれていく。そんな“求心力”を感じました。
薮下佳代
文化もユニバーサル化へ、世田谷パブリックシアターの出張公演

いつものホールが別世界に
この日やってきたのは、上北沢ホーム/デイ・ホーム上北沢という、入居している方と、日帰りのデイサービスを受けている方の両方がいらっしゃる施設。1日に平均45名のデイサービス利用者がいる施設で、世田谷区では2、3番目に大きな規模のホームです。
この日公演の舞台となったのは、一階のレクリエーションホール。会場までゆっくりと歩いてくる方、車椅子に乗っていらっしゃる方さまざまですが、続々とお年寄りが集まり、60名ほどの観客がホールに並びました。
公演が始まるまでの間、前座は職員の方が務めます。「最近は雨が多いんだか少ないんだかよく分からない天気ですけれども…」と始まり、芸達者な話術でお年寄りたちの関心をひきます。
そしていよいよ「@ホーム公演」の新作、『きみといつまでも〜わたしのお父さんはロボットです〜』(ノゾエ征爾さん脚本/演出/出演)が開幕します。この作品のストーリーは「森に住む女の子とロボットお父さんのちょっと変わった親子と、ふたりをとりまく青年と動物がおりなす、ドタバタ人情物語!(資料より)」というもの。しかし大掛かりな舞台セットはなく、観客の前に置かれているのは黒板だけです。開演前は、状況がよく飲み込めず、ポカンとしている方も目に付きましたが、その不安はすぐに吹き飛ぶことになりました。


上演に施された工夫の数々
というのも「@ホーム公演」では、お年寄り向けにさまざまな工夫がされています。まず劇の始まりには、皆の顔見知りである職員さんが前座を務めた後、扮装して出演し、場を和ませます。その後登場した4人は全員がプロ。出番になると自己紹介し、役名を黒板に大きく書きます。滑舌(かつぜつ)のいい話し方、平易な言葉づかい、そして黒板を使った文字の補助など、耳が不自由な方や理解に時間のかかる方に配慮ある演出のお陰でぐっと観客が前のめりになったのを感じました。
ほかにも、世界的なパントマイミスト山本光洋さんによる、見事なロボットの動きや、「三百六十五歩のマーチ」「君といつまでも」をはじめとする懐メロに、観客はみるみる惹き込まれていきました。舞台セットの黒板も、役者が隠れる場になったり、人形劇の舞台になったりと大活躍。また、お年寄りがパントマイムに一部参加するような仕掛けも、会場を沸かせます。随所にこれでもかと引き込まれる要素がてんこもり。しかも演じるのは、世田谷パブリックシアターほか各地で活躍するプロの演出家や俳優たちです。ストーリーや演技のクオリティを保ちつつも、直観的でわかりやすい、すばらしい舞台をつくりあげていました。


プロの演技に顔がほころぶお年寄り
始まる前は「何を言っているのか分からない」と不安がっていたおばあさんも、始まってみるとケラケラ笑っていたり、微動だにせずじっと見入っていた方が、「朧月夜」が流れた瞬間に、はっきりと美しい声で口ずさんだり。皆うんうん頷きながら体を揺らし、さまざまに楽しんでいました。「君といつまでも」は全員で大合唱となり、最後には涙を流す人もあちこちに見られました。「来てもらってありがたかった」「本当にかわいかったねぇ」「飽きさせないからすごい」と、客席のあちこちからの感謝の声とともに、30分の夢の時間は終わりました。

アウトリーチ演劇の意義
観劇を終え、この4月から上北沢ホームの施設長を務める、木谷哲三さんにお話をうかがうことができました。木谷さんは、以前は世田谷パブリックシアターも管轄する世田谷文化生活情報センターの副館長で、平成22年から始まった第一弾「@ホーム公演」を実現させた立役者の一人でもあり、今回のような公演の意味を当事者として実感されている方です。
木谷「もともと世田谷パブリックシアターでは、劇場を飛び出して芸術を生活の中に取り入れるような活動を目指してきました。しかし、施設に入所されているようなお年寄りには、なかなか演劇を届けることができませんでした。一方で、世田谷パブリックシアターにとって、若手演出家の育成事業も大事な役割です。そこがマッチしたのが、当時まだ新人だったノゾエ征爾さんが新作をつくり、老人ホームを巡回するという試みでした」
前作の『チャチャチャのチャーリー〜たとえば、恋をした人形の物語〜』は、3年かけてのべ30施設で公演、1800人の方々が鑑賞したといいます。この日こけら落としだった新作も、重度障がい者施設を含め、名乗りを挙げた世田谷区内11ヵ所の施設を、2週間かけて回ります。
木谷「介護の現場にも、本物を提供すること、そしてそれが《演劇》である点もポイントです。芝居は、意図的に感情を増幅させて表現しますよね。それがいいんです。普段あまり笑わない認知症の方が大笑いしたり、落ちつきのない方が集中して観劇したり、いつもと違う表情が引き出される。演劇には、セラピーとしての可能性もあるのだと実感しています」



もちろん、お年寄りの方々だけでなく、演出家、俳優をはじめとしたスタッフにとっても、この巡回公演はいい経験です。「観客と一緒にいい舞台ができる」といわれる演劇の現場。閉じた蓋が開くように感情を表に出して観劇するお年寄りの方々とつくる舞台は、格別な喜びがあるそうです。
木谷「@ホーム公演であっても、世田谷パブリックシアターでやる演劇と、何ら変わりない手順で作品づくりをしていますよ。スタッフもみなプロです。文化もユニバーサルデザインの時代。本物を、今まで届きにくかった人の元へきちんと届けることが大事な時代になってきています」
木谷さんがいうように、日常生活の中に潤いを与える芸術の楽しみは、日常生活が困難なところにこそ、必要とされています。今のところ、東京都内で「@ホーム公演」のような取組みをしている区は、他にありません。世田谷パブリックシアターが贈る夢いっぱいの演劇は、施設にいる方々を楽しませることはもちろん、福祉の文化化、文化のユニバーサル化、両方の課題に応える手法として、今後さらに重要な役割を担っていくのではないでしょうか。
(撮影:庄司直人 )


世田谷パブリックシアター@ホーム公演
『きみといつまでも ~私のお父さんはロボットです~』
脚本/演出=ノゾエ征爾
出演=山本光洋、たにぐちいくこ、井本洋平、ノゾエ征爾