
オープンして53年、松陰神社の昔を知る
松陰神社駅前に突如現れるバー。その名は「バッカス」。
ローマ神話の酒の神の名を冠したこのバーがオープンしたのは、なんと53年も前のことでした。
外から中を窺い知ることはできず、ドアを開くとき、少し緊張してしまいます。ドアの向こうには、タイムトリップしたかのような空間が。S字のカウンター、クロス張りのイス……すべて53年前から変わっていないのだとか。
壁にはお酒の瓶がずらりと並び、その横にはカクテルメニュー。そこには「ワインリスト」と書かれていました。なぜカクテルなのに「ワインリスト」なのでしょう?
「はるか昔、お酒といえばワインだったんですね。つまり、ワイン=お酒ということ。おそらくほかのバーでも、メニューは「ワインリスト」と書いてあるはずですよ」(飯塚さん)
チャージなしで、ドリンク代のみ、カクテル一杯650円〜からと、オーセンティックバーの趣ながら、松陰神社プライスなのもうれしい。
オープンしたのは昭和35年(1960年)のこと。なぜ、松陰神社で、このお店をやろうとしたのでしょうか?
「30歳でオープンしたんですね。それまでは、サラリーマンのような仕事です。自動車の修理工場に勤めてましてね、代田に住んで墨田区のほうへ通っていました。特にお店をやりたかったとかね、お酒が好きだったとかではないんです。その頃はね、仕事が選べなかったんです。なにかやらないとなと思ってね。お店を出すにもお金がなかったですから、三軒茶屋は無理でしたので、松陰神社になったんですね(笑)」(飯塚さん)
いまは東急世田谷線といえば、無人駅ですが、かつては駅員さんが常駐し、改札があったのだそう。“玉電”と呼ばれ、親しまれていました。
「世田谷線はね、大正14年からあるとても古い電車なんですよ。東京オリンピックでほとんどの路面電車はなくなってしまいましたけれどね。この松陰神社の商店街は、戦前からありましてね。すべて木造の2階建てだったんです。いまは見る影もありません」(飯塚さん)
東京オリンピックの開催は昭和39年。それを前後して、東京の街がだんだんと変わっていき、その町並みの変遷を見届けてきたという飯塚さん。
「昭和30年くらいかな? トリスバーやニッカバー、オーシャンバーがあちこちにあって、ハイボールを出してました。その頃はね、まだお酒がそんなにない時代でしたからね。松陰神社にも2~3軒くらいあったかな。けれど、いまではうちだけしか残ってないんです。これしかないから一生懸命やってきたっていう感じかな」(飯塚さん)




毎日変わらず、お店に立つということ
住宅街にあるとはいえ、近所の方だけでなく、「ずっと電車から見えて気になっていて」と途中下車して訪れる方も多いという。テレビや、インターネットを見て、遠方から来る方も最近では増えました。
飯塚さんは、毎日このお店に立ち、シェイカーを振っています。
「母親がね、健康に生んでくれたから、こうして53年もやり続けられるんでしょうね。お休みは特別ございません。私が一人でやっていますんで、いつでもいいんです。基本的には毎日やっています。仕事というより、自分の生活のリズムの一部。いろんなお客さんと話してるだけで、世の中とのつながりを感じるわけです」(飯塚さん)
その昔、戦争中は“月月火水木金金”という言葉があり、「休日なんてなかった」と話してくれました。
「ここはね住宅街ですからね、いつお客さんがくるかはわからないですね。おばあさんに近い年齢の女性もお見えになりますし、最近では、女性おひとりでいらっしゃる方も多いですよ。うちはね、ドアが閉まっていて中が見えませんから、入りにくいかもしれませんけれど、住宅街のバーですからね、そんなに緊張することはありません」
とはいえ、一人でバーへ行き、どういう風に頼めばいいのか、カクテルの名前もわからず、どぎまぎしてしまうことも……。
「そういうときは、どんなものがお好みかをうかがいます。甘いのか、強いものか、弱いのがいいのか。カクテルの名前を覚えようなんて無理ですよ。写真のついたメニューもあるので、そういうものから選んでもらうこともあります。この雰囲気ですからね、一度入っていただければ、落ち着いて召し上がっていただけます」
店の名物ともいえる「ソルティードッグ」は、ウォッカではなく、ジンベース。
「それを召し上がるとね、飲みやすいとみなさんおっしゃいますね。塩をなかに入れるんですが、一番おいしい量を加減して、シェイクします。私の作り方はね、イギリスなもんですからね。スコットランドのほうはウイスキー、下の方はジンですね。ジンのほとんどはロンドンドライ。だから、ソルティードッグもジンベースなんですね。ソルティードッグはね、昭和15年、イギリスで誕生したんです。船の甲板員がね……」
ソルティードッグの逸話。この続きは、ぜひお店で。飯塚さんの軽妙な語りを聞きながら、塩気がほんのり感じられる、絶妙な味わいのソルティードッグをいただきました。
大人になってお酒を飲む機会は増えても、バーで静かにお酒を嗜む時間はそう多くありません。
「バーはひとりで飲む場所。ゆっくりと飲みにきてください」と飯塚さん。
「バッカス」は、今夜もひっそりとオープンしています。




(撮影:渡邊和弘)


































































