作成者アーカイブ: admin
美味しい出会いが待っている!オリーブオイル&食材の専門店
水口ひとみ
沢田美希
赤ちゃんとお母さんでホッとひと息。子育ての輪が広がる、親子カフェ
お母さんの孤立化をなくしたい
小田急線の成城学園前駅から徒歩1分のところにある親子カフェ「パックスファミリア」。店内に入ると、木のぬくもりのある明るい空間に、かわいらしい木のおもちゃや絵本などが飾られています。店長の関口千鶴さんはこのカフェを始めた理由をこう話します。
「もともと子ども好きだったことと環境問題に興味があり、子育てと環境問題を結びつけたお店を開きたいと思いました」
結婚をきっかけに夫婦でお店を開き、まずは木のおもちゃの販売からスタート。子どもが舐めても安全な国内の天然無垢材を使用したおもちゃを探して取り揃えました。
また、開店準備の調査を進めるうちに、お母さんが子育てで孤立していることに気づいたという関口さん。親が遠くに住んでいたり、近所付き合いがなかったり、そんなお母さんたちの孤立化を、お店で解消できないかと考えました。
そこで、ハーバルセラピストの資格を持つ関口さんは、お店でハーブティーを提供することに。子どもたちが木のおもちゃで遊んでいる間、お母さんにゆっくりハーブティーとおしゃべりを楽しんでもらおうとカフェを始めました。
さらに、関口さんは持ち前のフレンドリーさを発揮。お店に来たお母さんに必ず話しかけたり、親子写真を撮影してプレゼントしたり、積極的な交流を心がけています。
「家族の幸せはママの笑顔から。家族という一番小さな枠組みが幸せになれば、もっと世の中は良くなるはず。小さなお店ですが、少しでも地域社会に貢献することができればと考えています」(関口さん)
その人柄に惹かれて、「煮詰まったので遊びにきました」「おしゃべりしに来ました」と言って来店されるお母さんも多いそう。「パックスファミリア」は、成城学園駅前を利用する、近所のお母さんが集まる憩いの場になっています。
イベント満載で赤ちゃんもお母さんも楽しく
お母さんに楽しんでもらいたい、お母さん同士の交流を深めたいという思いから、たくさんのイベントも開催されています。
取材した日に開催されていたのは、日本音楽脳育協会の中込美香子さんによる「リズムマッサージ」。リズムマッサージとはベビーマッサージをリトミック(※)で楽しもうというもので、マッサージに音楽的な要素を加えることによって、赤ちゃんの五感を刺激し、心と脳と体の発達を促します。「お母さんの歌声や心地よいリズムに触れ合うことで、赤ちゃんの感性やお母さんの音育児力が豊かになります」(中込さん)。9月からは、新たに、0歳からのベビーリトミック講座もスタートするとのこと。イベントの後は、ハーブティーを飲みながら先生と関口さんとお母さんたちの子育てトークで盛り上がりました。
また、毎週月曜日は関口さんが、絵本の読み聞かせ会を無料で開催しています。読み聞かせ会では、お母さん同士を結びつける仕掛けも。
「毎回、参加者の自己紹介をしたり、お子さんの名前をストーリーにからめたり、交流の機会を増やしています」(関口さん)
他に、ハーバルセラピストである関口さんによる「ハーブ・アロマ講座」や、お店のベビー服を作っている土居マミさんの「みんなの手芸入門」など、たくさんの魅力的なイベントが開催されています。
防犯・防災の情報やハザードマップも
店内には、地域の子育て情報も満載。近所の子育てマップや、子育てインフォメーションファイル、消費者庁の「子どもを事故から守るプロジェクト」などの資料が自由に閲覧できます。さらに、震災後は防犯・防災インフォメーションも加わり、世田谷区の地震や洪水のハザードマップなどが一目でわかるようになっています。各役所に行ってそれぞれ調べる時間はなかなかないので、こういった資料が一度に閲覧できるのはありがたいもの。ぜひ、一度自分の住んでいる地域の状況を確認しておきたいものです。
ただキッズスペースを設けたり、ベビーグッズを販売するだけではなく、地域のお母さんのサポートを第一に考えている「パックスファミリア」。お店というより、子育てサロンや児童館に近い印象を受けました。
初めての育児に不安な時や子育てに煮詰まった時、ふらっと立ち寄ってみませんか? きっと新しい子育ての輪が広がります。
(※)リトミックとはスイスの作曲家・音楽家エミール・ジャック・ダルクローズによって創案された音楽教育法。音楽を体で体験し、表現力や想像力を養う総合教育。
(撮影・文 中村 杏子 まちとこ出版社)
松陰神社前で昭和35年創業のカクテルの店「バッカス」
オープンして53年、松陰神社の昔を知る
松陰神社駅前に突如現れるバー。その名は「バッカス」。
ローマ神話の酒の神の名を冠したこのバーがオープンしたのは、なんと53年も前のことでした。
外から中を窺い知ることはできず、ドアを開くとき、少し緊張してしまいます。ドアの向こうには、タイムトリップしたかのような空間が。S字のカウンター、クロス張りのイス……すべて53年前から変わっていないのだとか。
壁にはお酒の瓶がずらりと並び、その横にはカクテルメニュー。そこには「ワインリスト」と書かれていました。なぜカクテルなのに「ワインリスト」なのでしょう?
「はるか昔、お酒といえばワインだったんですね。つまり、ワイン=お酒ということ。おそらくほかのバーでも、メニューは「ワインリスト」と書いてあるはずですよ」(飯塚さん)
チャージなしで、ドリンク代のみ、カクテル一杯650円〜からと、オーセンティックバーの趣ながら、松陰神社プライスなのもうれしい。
オープンしたのは昭和35年(1960年)のこと。なぜ、松陰神社で、このお店をやろうとしたのでしょうか?
「30歳でオープンしたんですね。それまでは、サラリーマンのような仕事です。自動車の修理工場に勤めてましてね、代田に住んで墨田区のほうへ通っていました。特にお店をやりたかったとかね、お酒が好きだったとかではないんです。その頃はね、仕事が選べなかったんです。なにかやらないとなと思ってね。お店を出すにもお金がなかったですから、三軒茶屋は無理でしたので、松陰神社になったんですね(笑)」(飯塚さん)
いまは東急世田谷線といえば、無人駅ですが、かつては駅員さんが常駐し、改札があったのだそう。“玉電”と呼ばれ、親しまれていました。
「世田谷線はね、大正14年からあるとても古い電車なんですよ。東京オリンピックでほとんどの路面電車はなくなってしまいましたけれどね。この松陰神社の商店街は、戦前からありましてね。すべて木造の2階建てだったんです。いまは見る影もありません」(飯塚さん)
東京オリンピックの開催は昭和39年。それを前後して、東京の街がだんだんと変わっていき、その町並みの変遷を見届けてきたという飯塚さん。
「昭和30年くらいかな? トリスバーやニッカバー、オーシャンバーがあちこちにあって、ハイボールを出してました。その頃はね、まだお酒がそんなにない時代でしたからね。松陰神社にも2~3軒くらいあったかな。けれど、いまではうちだけしか残ってないんです。これしかないから一生懸命やってきたっていう感じかな」(飯塚さん)
毎日変わらず、お店に立つということ
住宅街にあるとはいえ、近所の方だけでなく、「ずっと電車から見えて気になっていて」と途中下車して訪れる方も多いという。テレビや、インターネットを見て、遠方から来る方も最近では増えました。
飯塚さんは、毎日このお店に立ち、シェイカーを振っています。
「母親がね、健康に生んでくれたから、こうして53年もやり続けられるんでしょうね。お休みは特別ございません。私が一人でやっていますんで、いつでもいいんです。基本的には毎日やっています。仕事というより、自分の生活のリズムの一部。いろんなお客さんと話してるだけで、世の中とのつながりを感じるわけです」(飯塚さん)
その昔、戦争中は“月月火水木金金”という言葉があり、「休日なんてなかった」と話してくれました。
「ここはね住宅街ですからね、いつお客さんがくるかはわからないですね。おばあさんに近い年齢の女性もお見えになりますし、最近では、女性おひとりでいらっしゃる方も多いですよ。うちはね、ドアが閉まっていて中が見えませんから、入りにくいかもしれませんけれど、住宅街のバーですからね、そんなに緊張することはありません」
とはいえ、一人でバーへ行き、どういう風に頼めばいいのか、カクテルの名前もわからず、どぎまぎしてしまうことも……。
「そういうときは、どんなものがお好みかをうかがいます。甘いのか、強いものか、弱いのがいいのか。カクテルの名前を覚えようなんて無理ですよ。写真のついたメニューもあるので、そういうものから選んでもらうこともあります。この雰囲気ですからね、一度入っていただければ、落ち着いて召し上がっていただけます」
店の名物ともいえる「ソルティードッグ」は、ウォッカではなく、ジンベース。
「それを召し上がるとね、飲みやすいとみなさんおっしゃいますね。塩をなかに入れるんですが、一番おいしい量を加減して、シェイクします。私の作り方はね、イギリスなもんですからね。スコットランドのほうはウイスキー、下の方はジンですね。ジンのほとんどはロンドンドライ。だから、ソルティードッグもジンベースなんですね。ソルティードッグはね、昭和15年、イギリスで誕生したんです。船の甲板員がね……」
ソルティードッグの逸話。この続きは、ぜひお店で。飯塚さんの軽妙な語りを聞きながら、塩気がほんのり感じられる、絶妙な味わいのソルティードッグをいただきました。
大人になってお酒を飲む機会は増えても、バーで静かにお酒を嗜む時間はそう多くありません。
「バーはひとりで飲む場所。ゆっくりと飲みにきてください」と飯塚さん。
「バッカス」は、今夜もひっそりとオープンしています。
(撮影:渡邊和弘)
地方と都会のつながりを、世田谷代田で
知っている人がいるだけで、思い入れが変わる
まずは、昨年に続き二度目の出展となる、酒井硝子(ガラス)道具店の酒井由弥(ゆや)さん。普段は京都の京丹波町のガラス工房で働いており、酒井さんの清涼感あふれる器やコップの品々はどれも素敵です。
初めは、このお祭りに出るのをためらったことを話してくれました。
「地域のお祭りは、よそ者が入るよりも地元の方たちで盛り上げる方がよいのではと思ったんです。でも、手作りの器を使ってほしいという思いを伝えることに、地元かどうかはこだわるところではない、と世田谷代田の皆さんが気付かせてくださったんです。実際参加してみて、ものこと祭りに流れる空気、グルーヴ感みたいなものに刺激を受けました」(酒井さん)
昨年は、商店街の下駄屋さんだったお店を借りて作品を展示しました。下駄屋の奥さん、鈴木さんは、初めはじっと背後から見守っていたそうですが、そこは元接客業のプロ。黙っていられなくなって酒井さんとお客さんとの会話に加わり、最後にはすっかり楽しまれていたのだそう。あれこれと差し入れをしてくれて、終日お腹が減らなかったと酒井さんは笑います。
「このお祭りに出たことで知り会いが増えました。まだ第二の故郷とまではいきませんが、知っている人がいるだけで、その場所への思い入れができます。その関係はすごくあたたかいもの。自分が移動することで、普段暮らしている場所の良さに気付いたりもします」(酒井さん)
(ページ一番上とこの段落1枚目の写真:Photo by Koji Suga)
地域の活動を広げる場として
次にお話を伺ったのは「ナミイタ・ラボ」(波板研究所)の方々。石巻市雄勝町波板から来られたという青木甚一郎さんが、この活動の背景を教えてくださいました。
「うちの波板(なみいた)集落は21世帯しかない小さな集落でした。震災で4軒を残してすべて流され、今は各戸バラバラの仮説住宅に住んでいます。残された人々はほとんどが高齢者で、最期まで波板で暮らしたいという人が多かった。そこで皆で近くの高台に集団移転できるようにと計画が進められましたが、あまりに時間がかかって、集団移転を希望していた12世帯が7世帯にまで減ってしまったのです」(青木さん)
震災以前から限界集落として地域づくりを進めていた波板ですが、改めて行政に頼るのではなく、大学やNPOと共に地元の方々が、自分たちで小さな行政区を始めようとする動きが進みました。そのひとつが、コミュニティ施設の計画です。
「今別々の場所に住んでいる地元の人たちが、遊びにきて集まれる場所が必要だったんです。また、外部からの支援者が寝泊まりできるようにということもあり、さっそく設計が始まっています」
さらに震災以後、新しく東北大学の有志の教員と東京のデザイナー、地元住民が始めたのが「ナミイタ・ラボ」の活動です。ナミイタ・ラボでは、波板集落の価値を捉え直し、地元の畑や海で採れる食材、石や木、生活の知恵といった資源を活かしたワークショップなどの活動を計画中。
今回は初の情報発信の場として、このお祭りに参加しました。集落の山で採石される「波板石」を使ったワークショップは子どもたちに人気で、持参した地元の産物もすべて完売。
「今日はお客さんにもたくさん来てもらえて、本当に来て良かった」と青木さん。
まずは雄勝町のことをひとりでも多くの人に知ってほしいというのが、ナミイタ・ラボの願いです。今回はその活動の大きな前進となりました。
(上1枚目の写真:Photo by Koji Suga)
世田谷代田を自分たちの田舎に
そして最後に、ものこと祭りの目玉企画でもある“流しじゅんさい”を行う秋田県三種町の三浦基英さんに伺います。三種町はじゅんさいの産地で、地元でも、流しそうめんならぬ“流しじゅんさい”を行ってきたのだとか。昨年このお祭りに参加する前は、どんなお祭りなのか皆目見当がつかず、まずはとにかく行ってみようという気持ちで訪れました。
「来てみたら、竹でつくられた流し台をはじめ、木に囲まれた境内の会場など、すごく雰囲気がいいなと思ったんです。地元ではアクリル製を使っていましたから、このようなあたたかみのある雰囲気は出せていなかった。ものづくりする人たちが丁寧につくっているお祭りだなと感じました」
じゅんさいも産業としては厳しい状況にあります。それがこうして都心へ持ってくれば喜んでもらえるし、知ってもらうきっかけにもなります。
この日も、流しじゅんさいが始まると、大勢の人が集まり、箸でつかむのに苦戦しながらも美味しいと大評判でした。
「南さんが、世田谷代田を自分や自分たちの子どもの田舎にしたいと話しているのを聞いて、それなら任せろと思ったんです。田舎的なことなら、俺たちは得意だよと(笑)。このじゅんさいもその一つです。そのうち秋田へも、第二のふるさととして来てもらえたら嬉しいですし」
このお祭りに参加した子どもたちにとって、“流しじゅんさい”は、三種町の子らと同じように、自分が生まれ育った場所、地元の記憶として刻まれるのかもしれません。
こんな風に、「ものこと祭り」は都会と地方のつながりをつくるきっかけにもなっている模様。都会で暮らす私たちにとって、自然や食べ物などのホンモノが数多ある地方とのつながりは、“生きることのリアル”を感じさせてくれる窓でもあります。
もっと気軽に、都会と田舎を行ったり来たりできるようになれば、両者にとって新しい世界が広がるのかもしれません。
(上2枚目の写真:Photo by Koji Suga)
集まった衣類が、代田の元気に還元される「洋服ポスト」
「洋服ポスト」から地域のつながりを作りたい
「洋服ポスト」とは港区の公共施設、港区立エコプラザが企画し、六本木ヒルズマルシェなどさまざまな会場で開催されてきた取り組みです。現在はNPO法人として世田谷代田を含む都内5ヶ所で開催。地域で集まった古着は、NPO法人洋服ポストに買い取られ、その売上は世田谷代田の街が元気になる活動に使われます。
「洋服ポスト世田谷代田」で代表を努める服部さんは、もともとコミュニティづくりや地域活性に興味があったと話します。
「以前、港区立エコプラザの運営の仕事をしていた時に洋服ポストの活動を知り、世田谷代田でもできないかと思ったのが始まりです。ちょうど第1回目の『世田谷代田ものこと祭り』が成功した後で『楽しいことがあれば、地元の人も集まってくれるんだ』ということがわかった。洋服ポストの仕組み自体ももちろんですが、それをきっかけに地域の人が気軽に集まれるスペースを作りたいなと思い、導入を考えました」(服部さん)
現在、世田谷代田の洋服ポストは、駅北口のローソン隣の駐車場で開催されていますが、場所を決める際には、地域の方々に助けられたと言います。
「場所を探していた時、お祭りの際にお世話になった地元の悉皆屋の主人・志賀さんに企画書を見せたら、その場で駐車場を所有している会社の社長さんのもとへ交渉しについて行ってくれたんです」(服部さん)
住民が気軽に参加できるしくみ
志賀さんの他にも、地域の人々による協力を得て洋服ポストの開催が実現。今年の3月に開催された第1回では、合計2.3tもの古着が集まり、これまで3回開催してきました。
「毎回高級車で乗りつけて置いていく人もいれば、シェアハウスの女性が、45リットルのゴミ袋に詰めて、2人がかりで運んできてくれたりも」(服部さん)
人が集まる仕組みを作るため、洋服ポストには毎回「代田茶飲み場」という名前のくつろぎスペースを併設しています。洋服を提供していなくても、お茶を飲みながら休憩することができます。
「茶飲み場には『夢のダイタ帳』という、町の人に世田谷代田がこうなってほしいという夢を書いてもらうノートを設置しています。例えば“環七沿いのシャッターを綺麗にしたい”など、書かれた願いを叶えるために売上を使う予定です」(服部さん)
毎回、告知のために地域の名物店長へのインタビュー記事を載せた「ちらしんぶん(チラシ+新聞)」を作成し、街中に配布するなど、地道な広報活動が功を奏し、「茶飲み場」に集まる人たちも、少しずつ増えています。
「お茶を飲みに来たおじいちゃんおばあちゃんと、服を投函しに来た子ども連れの家族で会話する光景がみられるようになり、イベントに集まった人同士のコミュニケーションも生まれています。七夕には笹と短冊を用意したりと、人が集まるための色んな工夫を考えています。今後はもっと、街の人たちに携ってもらえる場にしたい。洋服ポストを“集客装置”と捉え、こんなイベントや活動をやりたい!という願いを叶えてほしいですね」(服部さん)
賑やかだったころの代田を新しいカタチで
世田谷代田の街には、金物屋、畳屋、靴屋など、古くから続く地域の商店が今も残っています。それもそのはず、戦前のこの街は、駅前の商店街に140店ものお店が軒を連ね、下北沢にも負けないにぎわいを見せる“小商いの町”だったのです。時代とともに商店やにぎわいは減ったものの、地域の絆が今も残っている。それを新しい形で復活させたいと望む服部さん。
「この町は、これからもっと変わりそうだなという予感がします。例えば、小田急線の踏切を無くす工事と同時並行で、駅前が緑道になるという話もある。世田谷区の保坂区長はエネルギー政策にも前向きです。いろんな伸びしろがあるこの町で、もっと地域の人が集まって元気になれるような、いろんな実験をしていきたいですね」(服部さん)
次回は8月25日に世田谷代田「モノコト祭り2013」と同時開催されます。洋服ポストも駅北口のローソン隣の駐車場で開催されます。
「お祭りの中心地となる、代田八幡神社の木陰は涼しくて快適です!新しい世田谷代田を発見しに、ぜひ遊びに来てください」(服部さん)
シャッター商店街にかつての賑わいを。まちの家具屋南秀治さん
地元の人たちに「恩返し」がしたかった
くみん手帖編集部:もともと、世田谷代田には縁があったのですか?
南:世田谷代田には、4年前に引っ越してきたんです。家具デザインの専門学校を卒業して、自分の作品を自由につくりたいと、工房を探して不動産屋さんを歩き回りました。「家具工房をやりたいのですが…」と言うと、怪しいと思われたのか、全く相手にされませんでした。それで、当時住んでいた三軒茶屋を中心に、シャッターが閉まっている物件を探しては、直接大家さんに頭を下げて回っていたんです。失望感を持ち始めた頃に出会ったのが、世田谷代田駅前の、クリーニング屋さんのおばあさんでした。長年続けてこられたクリーニング屋さんでしたが、閉店を決めた直後だったそうです。
大家さんはもちろんですが、何始めるの?ってみんな声を掛けてくれて。とにかく街の人たちが、あたたかいんです。都会なのに、こんなに人と人の距離が近い街があるんだって、ちょっと感激しました。
くみん手帖編集部:今は少し寂しい世田谷代田商店街ですが、昔は賑わっていたのでしょうか。
南:かつては、140軒ものお店が連なっていたそうです。昭和38年に環状7号線の開通工事があって、商店街が分断されてしまったのだとか。お店の数もだんだん減って、かろうじて続けてきたいくつかの店舗も、後を継ぐ人がいなかったりで…。こうした状況を目の当たりにして、工房をオープンしてすぐに、地元の人たちに「恩返しがしたい」と考えるようになったんです。
見たかった景色を、1日だけ実現できた「ものこと祭り」
南:家具工房には「monocoto」という名前をつけたのですが、同じ家具デザインの専門学校を卒業した4人のメンバーでこの場所をシェアしています。僕たちはつくり手なので、つくり手の仲間たちをこの街に呼んで、お祭りをしてみたらどうだろうってメンバーに提案してみたら、みんな賛同してくれて。最初は、200人くらい来場してくれるかなぁって言っていたんです。そうしたら、蓋を開けてみたら、来場者は900人。嬉しかったと同時に、驚きました。
普段は人が通らない商店街に人が通って、誰も立ちどまらないショーウィンドウに人が立ちどまって…。見たかった景色を、たった1日だけですが、実現できました。店先を貸してあげていたおばあさんが、出店者さんに「売り方教えてあげるわよ」ってやりとりしていたり。子どもたちは、竹とんぼのつくり方や飛ばし方を、おじいさんに教えてもらったり。いろんな場所で、人と人との接点をつくることができたかなって思います。
くみん手帖編集部:こけしアートプロジェクトや、流しじゅんさいなど、個性的な企画が盛りだくさんでしたよね。
南:こけしは、アーティストと使い手をつなぐためのきっかけづくりとして始めてみたんです。つくり手として、個人でできることには少し限界も感じていて。ひとりでは、そんなに多くの人の心を動かせない。でも、100人のアーティストが集まって、それぞれが10人に伝えれば1,000人になるし、1体のこけしよりも100体のこけしの方が心を動かすエネルギーを持っていると思うんです。
流しじゅんさいは、実行委員メンバーのひとりが、秋田県のじゅんさい産地とつながりがあって。じゅんさい流したら面白いんじゃない?と。竹を割って準備をするところからみんなでやって、初めての試みで大変でしたけど、とても盛り上がりました。
実行委員会のメンバーがまた、面白い人たちなんです。実行委員は20人以上いますね(笑)。実は世田谷代田に住んでいない人の方が多かったりする。人が人を呼んで、どんどん増えているんです。中には、昨年も手伝ってくれて、世田谷代田に引っ越しをしてきた仲間もいますよ。嬉しいことですね。
「ありがとう。」で食べていける街にしたい
くみん手帖編集部:「世田谷代田ものこと祭り」のコピー、“ありがとう。で、つなごう”に込めたのは、どんな思いでしょうか?
南:昨年は、まず第一歩。あまり深く考えずに、やってみたんです。商店街に人が行き交う風景を見て、これをどうやって日常の景色にできるだろうって。いきなり日常の景色にはできなくても、例えばこの祭りを10年続けていくなかで、「ありがとう。」でつながって、「ありがとう。」で食べていける街にしたいなって思うようになりました。昔は、そうした暮らしがなされれていたはずなんです。今は、そういう人のつながりが欲しかったら、田舎暮らしをしたらいいよということになってしまう。東京の真ん中で、実現したいんです。
都会はお金が手に入るけど、心が寂しくなる。田舎は心が豊かになるけど、お金がたくさんは手に入らない。どっちかを無理矢理選ぶ生き方が、今の日本ではあたりまえなのかもしれない。でも、都会と田舎のいいとこ取りをするのが、僕の究極の夢です。例えば、1年のうち半年くらい都会で過ごして、その間は自分の仲間が、田舎で仕事をしている。半年したら、自分が田舎に行って、仲間に都会に戻ってきてもらう。
くみん手帖編集部:家族ぐるみの話となると、なかなか難しそうですが。
南:保育園や小学校など、子どもの教育に関してハードルはありそうですが、やってしまえばできるような気がするんです。世田谷代田ものこと祭りを運営して得たものは、仲間です。商店街の人に声を掛けていただいて、地域の消防団にも入団しました。声を掛けていただいて、とても嬉しかったんです。こうした大切な仲間たちと、今度は人生もシェアしたい。そんな心の通った暮らし方を、世の中に提案してみたい。きっとできるって信じているんです。
南さんの思いを聞いて、人が集まり、やがて集まった人たちがそれぞれに「ありがとう。」を別のかたちで誰かに伝えていく。「伝え手」になることは特別なことではなくて、共感して、自らも発信していけば、誰でもできることなのだと思いました。
今年の「世田谷代田ものこと祭り」は8月25日。うちわ持参で、ぜひ世田谷代田の街にふらっと出掛けてみてはいかがでしょう。
南秀治
小田急線世田谷代田駅前の、まちの家具屋。自分の作ったものだけでなく、お客様がモノを大切に使っていただけることが一番の喜び。世田谷代田が「ありがとう。」でつながる街になったらいいなと夢見ています。
増村 江利子
【特集】世田谷代田の町と「ものこと祭り」
昔ながらの世田谷代田を知る、悉皆屋「染の鶴賀屋」に聞く今の街
環状七号線ができる前の代田とは
八百屋や魚屋などの生鮮類だけでなく、酒屋に乾物屋、佃煮屋、パン屋、ラヂオ屋に煙突屋、髪結屋まで、ありとあらゆるお店が建ち並んでいたとされる「中原商店街」(昭和26年に代田商店会に名称変更)。その数140店舗あまり。昭和14〜15年頃の商店街の姿が記された本、『昔の代田(故・今津 博 著)』にある古い地図を見ると小田急線世田谷中原駅(現・世田谷代田駅)と、帝都電鉄(現・京王井の頭線)代田二丁目駅(現・代田駅)を結ぶ細い道沿いに店の名前がずらりと並び、その頃の様子が少しばかり伺えました。
戦後、さらに200店舗にまで膨れ上がったものの、環状七号線の道路計画が持ち上がり、ちょうど道路上にあった中原商店街は分断されることに。もちろん、お店はほとんどが立ち退きをよぎなくされ、住民の生活は一変しました。
当時を知る「鶴賀屋」の志賀三平さんは昭和20年生まれ。現在の代田商店会の4代目会長でもあります。昭和27年に中原商店街でお父さんが始めたという悉皆屋(しっかいや)「鶴賀屋」も立ち退きにあい、環状七号線沿いに移転。今は2代目の志賀さんが営んでいます。悉皆屋の仕事は、洗い張りや生き洗いなどの和服のクリーニングをはじめ、仕立や仕立直し・反物の染めや染め直しなど、多岐に渡ります。着物が日常着だったその昔にはどこの商店街にもあったのだそう。
志賀さんは若林、奥さんの芳子さんも松原と、おふたりとも世田谷生まれ、世田谷育ち。当時、まだ子どもだった頃の代田の思い出を聞いてみると……。
「環七が工事中だった時、工事現場でキャッチボールをして遊んだね。子どもの遊び場になってたけれど、それもほんの一瞬。東京オリンピックの開催に合わせて突貫工事で環七ができあがった。この時代は子どもが多かったけれど、道路ができた途端、みんないなくなってしまったね」(志賀さん)
1クラス50人もいた同世代の友だちは、ほとんどが立ち退きで引っ越してしまったそう。大きい道路ができたことによって、遠くに行くには便利にはなっても、近くのお店や人との暮らしのなかのつながりは分断されてしまったのでした。
昔ながらの人と人がつながる商店会へ
近くて遠い、道路のこちらとあちら。かつては、お店がひしめきあい、向かい同士で声をかけあえる道幅だったという中原商店街も、今は代田商店会として所属するのは40店舗ほど。中には商売はせず、商店を壊してビルに建て替え、マンション経営になっているところもあるのだとか。けれど、そんなシャッター街になってしまった代田商店会に、今から3年前、専門学校を卒業し、自分の作品を自由に作ることができる工房を探していた家具職人の南 秀治さんがやってきました。そして、代田商店会に仲間とともに工房を構え、『世田谷代田ものこと祭り』を開催。こうした活動などをきっかけに、少しずつ代田商店会に新しい風が吹き込んできました。
南さんが代田商店会で工房を構えた時、大家さんに紹介されて挨拶へ行ったのが、商店会長である志賀さんのお店でした。『ものこと祭り』を始める時も、「おもしろいじゃん。やるならやってみな」と、各方面に話を通してくれたと言います。
「今までそんな若者はいなかったから応援したくなってね。昔そうだったようにさ、人と人のつながりができるといいじゃない」(志賀さん)
志賀さんはそんな想いから、南さんを全面バックアップしたのでした。その紹介によって商店会、消防団などにも所属南さんは、平均年齢が70歳近い高齢化した商店会のなかで若手として活躍を期待されています。
「南さんが来てくれたことによって、代田も変わってくると思うよ」と志賀さん。南さんも「志賀さんみたいな人がいるのは心強い」と話すように、互いが互いを必要としながら、コミュニティのなかで、それぞれの役割を担いながら暮らしていくこと。商店会は、本来そういうつながりがあったところでしたが、大型の幹線道路や店舗ができてからというもの、そういうつながりが見えにくくなってしまいました。けれど、南さんのように、地域に入っていこうとする勇気と、人の心を動かす思いがあるならば、関係は自然と変わっていくのではないでしょうか。
これからも残して行きたい「もの・こと」
かつて世田谷に5~6店舗あったという染めを専門とする小紋屋も、着物を着る機会が少なくなった今では、職人さんが激減。次々と店を畳んでいったそうです。
「職人がやる仕事は独り立ちするまでに何年も必要でしょ。一度失った技術はもう戻せないのよね。いいものがあったのに」(芳子さん)
ものづくりを生業にする南さんも、「職人はがんばってるのに、なかなか変わらない状況をなんとかできたら」と言います。
「今の状況は需要があって、使い手がいてこそ変わること。いいものを使うのって楽しいね、いいよねって思ってほしい。だから『ものこと祭り』で、職人と街の人が交流してもらうきっかけになるといいなと思っているんです」(南さん)
例えば「着物に興味を持ってくれた人が志賀さんのところで着物を仕立ててみようと思ったり、僕のところで家具を作ろうとか、5年前に買ったものなんだけど直してもらおうとか、そうした作り手と使い手が一回で終わる関係じゃなくて、長く『ありがとう』でつながる関係がつくれたらいいなと思っています」(南さん)
第2回目の開催となる今年も、志賀さんの鶴賀屋は昨年に引き続き、絹100%のはぎれを販売するとのこと。今年はスタンプラリーのスポットにもなるそうで、ぜひお店に立ち寄って、昔話に花を咲かせてみては?
(撮影:渡邊和弘)
ご近所にこんな魚屋があると嬉しい。食卓の心強い味方「勇魚」
新しい魚に出会える場
千歳烏山の駅前通り商店街から少し離れた、住宅街の入り口に「勇魚」はあります。店内をざっと見渡しただけでも、魚の種類は20〜30種類。東京のほかの店では滅多に手に入らない珍味も豊富で、取材で訪れたこの日は、カツオのはらんぼや、マンボウの腸、“オジサン”や“スミヤキ”なんて変わった魚も置いてありました。
「魚の種類って本当にたくさんあるので、なるべく多くの人に、知らない魚も食べてみてほしいんです。この店へ来ると、いつもうまくて面白いものが置いてあるって思ってもらえたら嬉しい。意識して珍しいものを置くようにしています」
と、店長の野近勇気さん。
昔ながらの魚屋の良さを
10年以上板前をしていたという野近さんは、同僚だった佐藤拓人さんと二人でこのお店を始めました。魚に関しては同世代に負けない知識をもつ野近さんと、どんなお客さんとも気さくに話せる佐藤さんは、傍で見ていても名コンビ。今年の2月に開店したばかりですが、わずか半年でお客さんが途切れることなく訪れています。
ここで買う魚はいつも新鮮で、初めて見る珍しい魚もあり、買い物するのが楽しみになります。そして何より嬉しいのは、二人が熱を込めて魚のことを色々教えてくれること。
「どの店もだいたい置いてある魚って同じですよね。アジにサバにイワシ、切り身だったらサーモンとブリ。知らない魚があっても、どうやって調理したらいいかわからないから皆買わないし、スーパーでは珍しい魚にはあまり手をつけない。うちではどこで穫れた魚かをきちんと説明して、こう食べるとうまいよってアドバイスするようにしています」
どの海の魚がいつ頃出まわるか、どのくらい脂がのっていて美味しいか。同じ産地でも気候などの条件によって海の状況は変わります。だからこそ漁場や市場から旬を運んでくる魚屋の役割は大きいもの。お客さんとの会話や、その日食べる分だけをさばいてくれるなど昔の魚屋には当たり前にあった文化が薄れている今、「勇魚」のような魚屋が、あらためてその価値を教えてくれます。
料理人だからこその魚屋
将来は魚を扱う料理屋を始めることが目標で、その土台として魚屋を始めたと言う野近さん。魚の旬を肌で感じるため、毎日築地まで仕入れに出向きます。
「値段ではスーパーに勝てないけれど、ここへ来ると魚に間違いがないって言ってもらえるような店にしたい。朝しめてまだ身がぶるぶるしている刺身は、自信をもってお勧めできるし、本当の魚の美味しさを知ってもらいたい思いがあります」
店の一番の売りは、野近さんの出身地でもある高知県のカツオです。時期によって他の産地のものも扱いますが、毎朝店で、実際にわらで焼いているという徹底ぶり。そのほかにも、料理人の営む魚屋らしく、刺身やフライ、南蛮漬けなど、調理したお惣菜もたくさん置いてあり、仕入れた魚を捨てることはほとんどないのだそう。
その上、魚をおろすだけでなく、焼く、煮る、揚げるまでをやってもらえる(!)サポートもあるので(+100円)、忙しいお母さん方には心強い味方です。
「年配の方も多いけど、意外と若い子連れのお母さんが多いですね。スーパーの魚にも産地は書いてあるけれど、うちは産直のものもあるし、出どころがはっきりしているので、安心して買っていただけているんじゃないですかね」と佐藤さん。
お店でのお客さんとの会話に耳をすますと…。
「このサワラ、煮付けるのにお出汁要ります?」
「今のサワラは要らないですね。醤油とみりんだけで十分。もうちょっとして、脂が減ってくると少し入れるといいかもしれない」
「はらんぼって何ですか?」
「鰹の一部で、東京では滅多に手に入らないけど高知だとよく食べるんですよ、塩して酒のつまみに」
「これって、どこのカツオ?」
「普段は高知のカツオを産直で扱ってるんですけど、今の時期は勝浦のもち鰹の方が旨いんです。同じ産地でも季節によってまったく違うから。もう少しすると、今度は気仙沼の戻りガツオが出ますよ」
海で生きていたものをいただいている実感を、より鮮明にしてくれる、産地が垣間見えるお店です。
(撮影:庄司直人)
連載『その食べ物の生まれるところ』
今都会に暮らす私たちは、食べ物の生まれる所からどんどん遠ざかっていると言えます。食卓に並ぶ野菜や肉、魚など食材はすべて、もとは自然のなかで育った植物や動物たち。生産地は地方でも、きちんと選んで美味しく食べてもらうことを真剣に考えているお店が世田谷にはたくさんあります。その食材がどんな土地で栽培され、どう食べると美味しいのか。教えてくれて「食べ物の生まれるところ」を想像させてくれるのが、実はいいお店。そんな食の伝道者をご紹介していきます。